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二ヶ領用水の歴史は古く、江戸初期にさかのぼる。徳川家康の命を受けた小泉次太夫が、慶長2年(1597年)年から約14年の歳月をかけて開削した、多摩川で最古の農業用水路。開削当時からは分量樋と呼ばれる施設で分水していたが、干ばつでQが減少すると分派する割合が変わってしまう不公平な施設であった。
その後の水田の拡大と共に水争いが頻発。中でも「溝口村水騒動」は最大規模の水争いとして有名。
大正時代には、東京の水不足解消のため多摩川からの取水量が増量され、多摩川の流量は急激に減少していった。その後、東京市は小河内ダムの建設を含む水道拡張事業が計画されたが、神奈川県が反発。多摩川の水争いは神奈川県と東京市を巻き込んだ大掛かりなものとなった。
この行政を巻き込んだ水争いは、@かんがい期に多摩川の羽村堰からの流れを毎秒2立方メートルとすること、A東京市は二ヶ領用水改修費の補償金として153万円程を支払うことを条件に終焉を迎えた。
これにより二ヶ領用水の改築が始まり、円筒分水が設置されることとなった。
分水比率はかんがい面積の比率によって定められており、それぞれ内円筒の円周距離で、川崎堀:38.471m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、根方堀7.415mに分けられている。 |